川島哲のキャストパーシャルの真実

第4回

下高井戸にある日本大学文理学部地理学科を3年で中退し、飯田橋にある日本写真学園を1年通いプロカメラマンの夢も3年程で挫折した。
そんな自分に出来ることは手技的技法しか残されていないと信じたから、東京ドラリアムに飛び込んだ。正直、気分的には落ち込むこともあったが充分士気は高かった。
初めて就職した鋳造床の歯科技工所に勤務するようになってから5か月程が経過した頃は、歯科技工士ライセンス保持の先輩が研磨のスピード対戦を吹っかけてきた。
研磨はハンドエンジンを一切使わず、高速レーズのみで仕上げまで行っていた。
ドイツはハンドエンジン、アメリカは高速レーズ方式だった。ここはアメリカ方式が合理的で理にかなっていた。この方が精確で綺麗な研磨が出来かつ早い。
早朝先輩が鋳造したのを、新人の私が5ケース、歯科技工士の先輩T君が5ケースに分け簡単なケース複雑なケースもバランスよくして、競争させられた。
最初の頃は私は負けていたが、対戦を1か月程した頃は無敗状態になっていた。先輩は私より若いが共生会の歯科技工学校(現.明倫)を卒業して入社した方であった。
その先輩の敗北を見かねたチーフのT氏が、川島君今日からは私と“やろう”と競ってきた。1週間程でその研磨競争は全戦全勝で終息したが、実はその後が大変だった。今でいうパワハラである。
特例歯科技工士(歯科技工学校を出ないでの免許取得者)のT氏は、なにかと理由を付けては競争するタイプで、自信過剰の自惚れタイプ、性格は冷淡で、あら捜しばかりされて、嫌味なタイプであった。
会社でボーリングに行った際に、マイボールやマイシューズを専用バックに入れて自慢げに参加していた。意外とスコアは良くて様になってはいたし、ストライクも多かった。いつもと違い彼はその時だけ、とても上機嫌だった。
その後、研磨スピードに敗北したのが相当こたえたようで、自尊心を傷つけた代償は激しかった。実は辞めさせてやるぞという思惑で“ふつふつ”だった。
そもそも私は右も左も解らない新米で歯科技工学を学んだことが無い、そんな身分での研磨の挑戦は正直辛かったが、受けた以上は不思議と負ける気がしなかった。手が良く動き、その動きに目が付いて行かない位の速さだった。
そもそも私は、彼ら先輩たちの研磨を考察し、無駄な動きが多いことに以前からチエックしていた。
その主要なタイムロスは、総じて合理的な研磨方法で無かった点である。先輩方は一様に科学的でないし物理的でもない、悪い意味の職人技で研磨をするという職人的“仕草”を重んじていた。
そこには先輩方のそれなりの“美学”があったが、私は彼らを真似しなければ上手になると分析していたので、正反対のことを行う法則に単に従えばよかった。
変な話だと思うが結果的に彼らのやり方の反対を行けばよく、先輩を頼りにすればするほど上達への道は早かった。反面教師とはこのこと!!
実は入社前に2年間で鋳造床技術を習得する目標を条件付けていた自分、業界的には5年以上はかかると言われていたが、初戦は白星スタートだった。
しかし良い状況ばかりではなく、その数か月後に悪夢の出来事が発症し始めたのだった。