川島哲のキャストパーシャルの真実

第7回

前回までに東京ドラリアムに入社した年を1974年(昭和49年)と表記したが、これは1972年(昭和47年)当時24歳が正しい。)

 

日本歯研工業の鋳造床課に在籍したのは1973年4月(昭和48年)25歳の時である。

夜間部の東邦歯科医療専門学校 歯科技工科に通いながらの勤務は寝不足でホンマ辛かった。

通勤通学の時間だけでも一日に延べ5時間かかるわけで、しんどい歯科技工ライフであったと思う。

若さと言えばそれまでだが、大した食事も摂れず栄養状態は最悪で、食卓でゆっくり頂くなんて夢また夢の状態。東邦技専の売店のホットドッグは良く食べたが、決してホットではなくいつも冷たかったし、ケチャップの多さで最後まで美味しいとは感じなかった。

 

午後の3時までの日本歯研でのクルタニウム(Co-Cr-Til合金)部の私の業務は、朝に鋳造を行うのだが、アセチレン熔解で遠心鋳造機はクルタマットを用いた。バーナー(BEGO社)の超重い事この上ない、まるで機関銃を持たされてる感じである。

そもそもアセチレンガスはボンベに引火しないために1分以内で熔解しないとドイツのバーナーは自動的に消されてしまいます。安全装置は厄介なものだが板チョコのようなインゴット30gを時間内に熔解するのはかなりコツがいる作業である。

実は“ナメラレル”ことが良くあって、ユニーク製のリングフアーネスを1000℃と決められていたが、内緒で100℃アップして鋳込み不足を解消しようとすると、課長に何度も下げられてしまう事が辛かった。ファーネスの消耗が気になってるとは解っていても止められなかった。課長は私に注意はしないが、気が付いてたら下げられていた。クルップ社のクルタベスト(リン酸塩系埋没)は高温でも耐えられる埋没材であったのが救いでした。

その後割出しサンドブラスターを用いて酸化膜を除去し、1日7床をノルマとした。

このクルタニウムの研磨は私1人しかおらず責任感は持てたが、研磨時間が2時間から3時間しか取れず限られた枠での7床完成は世界チャンピオンものと思う。

実は、東京ドラリアムで鍛えた高速レーズテクニックが吠えまくった。

日本歯研では皆さんハンドピースのみで研磨するが、私だけデムコ社製の高速レースを買ってもらい一人目立つ存在だった。

鋳造床の研磨ばかりで所属はクルタニウム(Co-Cr-Ti合金 独クルップ製)床でのWax-Upも設計も夢また夢の状況で、一人前の技術者になりたいモティベーションはあっても精神的には凹む毎日であった。

そもそも、Wax-Upしている先輩方は5年も10年も一生Wax-Upという話を聞いたら平静ではいられなかった。女工哀史や蟹工船や農民哀史を思い浮かべたのも自然に感じた。現代の歯科技工哀史とは言い過ぎだろうが私には似た様にしか感じられなかった。

だが、けっして日本歯研が悪いとは思わない、何故ならば大手LABOの効率化を考えたら分業化はごく自然な事であったと思う。一日にCo-Cr床含めれば30床以上は生産するわけだからしょうがないなーと思うようにきっとなるはず。

ただし私は、研磨部から脱出しWax-up含めて設計も全て出来るようになることを心の底では思い描いていたが、けっして社内でこの考えを話すことは封じていた。

驚いたことに私はある時期からいきなり設計部に出入りできるようになった!!

そこで夜間部でも起きた事件、会社でも起きた事件を、、、、。