川島哲のキャストパーシャルの真実

第5回

悪夢の出来事は真夜中の侵入者として突然来訪してきた。

就寝後の午前2時、体が布団の中で温かくなる頃に、止まることを知らない“咳”こむことで発症した。毎晩この時間帯になると定期便の様に訪れては眠れなくなる。

病院で診察を得たら、急性気管支炎とのことだった。

高速レーズでもレイフォスターは簡易な集塵袋が附属されていたが、どうやらこの布袋が原因とみた。環境衛生での日本大学松戸歯学部教授の森本基先生いわく8μ以下の粉塵は2度と肺から出ないといわれているが、これが私の肺に悪さしたようだ。

私は、金子社長にアマノ集塵設備(工業用)を導入して頂けるよう掛け合ったが、60万程はかかるので現在は無理との答えだった。君の研磨は上手いのにもったいないと言われたのは嬉しかった。せっかく研磨も一人前にできるようになった矢先のことで、残念だったがこれ以上は体を犠牲にできない、やむなく東京ドラリアムを去ることにした。

ビーチアタッチメントやドブテールアタッチメントなどのハンドメイドアタッチメントは、ここで知ることになった。ケースのほとんどがビーチアタッチメントを用いていた。矯正ワイヤーでの審美的な簡易なアタッチメントはすこぶる良かったが微妙なコツがあることは少ない時間でも理解できていた。

ここでの研磨のスピード化を体得したことは、最初は直径40mmもある大き目のジスクを用いて出来るだけ不必要な部分の削除を正確にためらわず大胆に行うこと。このことで、相当な速さで研磨が省力化され、次は可及的に大きなカーボランダムホイールを用い、ポイント類の小さ目のカーボランダムポイントは、最後にしか用いないようにする。小さいポイントは多くを削れないので大幅に削るところは大きな研磨材を用いれば良い事なので、この点さえ守ればスピード化は達成できる。

しかし多くの歯科技工士は“チョコチョコ”というか“ちょこまか”というか慎重になりすぎて大胆な研磨作業が出来ない。慎重さが邪魔をしてどうしても時間を掛け過ぎてしまう悪循環に陥る。肉厚.肉薄のジスクを多用する研磨方法は当時とすればかなり珍しい方法だった。普通はカーボランダムホイールやヒートレスホイールに走るのだが。

一般的に研磨がどの程度出来てるかの確認で研磨作業を一瞬止めて眺めていることがあるが、そのようなことは研磨してない時間を単にロスするだけで合理的とはいわない。スピーディーに研磨する為には研磨している作業は絶対止めないで、削りながら確認すれば良いこと。要するに研磨の手を休めずに、ひたすら研磨し続けることである。結果的に“動体視力”が鋭敏となり動画も静止画像の様に見えるようになる。

入社半年位で最初の歯科技工所を去ることで病気の方は自然と治癒したが、かなり肺へのダメージはあったと思う。歯科技工士に成るというよりも、鋳造床をモノにする希望は捨てたわけではないが暫くは静養していた。

そんな時に歯科技工士であった兄が日本歯研工業株式会社にはアマノ集塵装置が完備した鋳造床課があると教えられ、就職と共に東邦歯科技工学校(夜間部)に入学することにした。1973年4月から歯科技工士を目指しての再スタートである。昼間は、いわゆる大手での老舗技工所である。

余談になるが東京ドラリアムで借りてくれたアパートは三鷹駅東口のホーム近くにあり裏手は線路であったが、このアパートが悲しくて笑える。小さなスナックの2階で布団を敷くとスペースは無くなるぐらい位狭かった。天窓ひとつで留置場の様で、夜中にスナックと共用のトイレに行くために階段を降りて行くと、プチュッと何度も音がするのである。朝見るとゴキブリの死骸が散乱していた。睡眠中は布団の中に何十匹も同居するが最初は気持ち悪かったが、暫くすると気にならなくなった。深夜よくお店の桜子ちゃんが又来てね!!と猫なで声で送り出してる声がしたが、またねと言ってる声が、ネコちゃん(金子社長)と水島取締役だった。

こんなゴキブリだらけのスナックに良く来るよと思いながら、私はゴキブリ君達と夢の中だった。あのたいして可愛くもない太目の桜子ちゃんのどこがいいのだろうかと解せなかった。

ついでだが、ドラリアム時代の生活ぶりは、金無い、暇ない、腕が無い、3無い状態だった。昼食は皆さん近くのキッチンから取り寄せてピラフや魚定食を食べていたが、私は好味屋というオシャレなパン屋さんがあったので食パンを買いゴキブリ館で食べることにした。何せ狭いアパートなので家具も無く冷蔵庫など考えもしなかった。マーガリンは夏の暑さで分離してるので、それを掻き混ぜて塗って食べたが正直美味しくは無かった。トランス脂肪酸は不健康そのものだったに違いない。朝昼晩の食パンの貧乏ライフはシンプルで、それはそれで許されるもので、お腹は満腹にはなっていた。

それでも会社に戻れば今日の生姜焼きは美味しかったとかステーキ食べたとか大見得きっての嘘生活は正直辛かったが、心の中ではそう傷ついてはいなかった。

着るものもネクタイもちゃんと〆ており枚数は無いがVANやKENTを着てアイビールックできめていた。だから会社の同僚たちは、どこかのお坊ちゃまかと勘違いしていたようだった。

脇道話はこの辺にして戻します。

退職後は引っ越しており、川越の実家で生活していたので、日本歯研のある五反田の目蒲線の不動前駅までの通勤と京王線の聖蹟桜ヶ丘の東邦技工学校と自宅までの電車通勤通学ライフは正直きつかった。朝の東武東上線といい池袋からの山手線といい地獄の込み方で通勤ラッシュは“つらい”で、通学中の聖蹟桜ヶ丘で居眠りし乗り過ごすことが多かった。

通学した夜間部の技工学校では順風満帆とはいかない事件が、、、、、、

第4回

下高井戸にある日本大学文理学部地理学科を3年で中退し、飯田橋にある日本写真学園を1年通いプロカメラマンの夢も3年程で挫折した。
そんな自分に出来ることは手技的技法しか残されていないと信じたから、東京ドラリアムに飛び込んだ。正直、気分的には落ち込むこともあったが充分士気は高かった。
初めて就職した鋳造床の歯科技工所に勤務するようになってから5か月程が経過した頃は、歯科技工士ライセンス保持の先輩が研磨のスピード対戦を吹っかけてきた。
研磨はハンドエンジンを一切使わず、高速レーズのみで仕上げまで行っていた。
ドイツはハンドエンジン、アメリカは高速レーズ方式だった。ここはアメリカ方式が合理的で理にかなっていた。この方が精確で綺麗な研磨が出来かつ早い。
早朝先輩が鋳造したのを、新人の私が5ケース、歯科技工士の先輩T君が5ケースに分け簡単なケース複雑なケースもバランスよくして、競争させられた。
最初の頃は私は負けていたが、対戦を1か月程した頃は無敗状態になっていた。先輩は私より若いが共生会の歯科技工学校(現.明倫)を卒業して入社した方であった。
その先輩の敗北を見かねたチーフのT氏が、川島君今日からは私と“やろう”と競ってきた。1週間程でその研磨競争は全戦全勝で終息したが、実はその後が大変だった。今でいうパワハラである。
特例歯科技工士(歯科技工学校を出ないでの免許取得者)のT氏は、なにかと理由を付けては競争するタイプで、自信過剰の自惚れタイプ、性格は冷淡で、あら捜しばかりされて、嫌味なタイプであった。
会社でボーリングに行った際に、マイボールやマイシューズを専用バックに入れて自慢げに参加していた。意外とスコアは良くて様になってはいたし、ストライクも多かった。いつもと違い彼はその時だけ、とても上機嫌だった。
その後、研磨スピードに敗北したのが相当こたえたようで、自尊心を傷つけた代償は激しかった。実は辞めさせてやるぞという思惑で“ふつふつ”だった。
そもそも私は右も左も解らない新米で歯科技工学を学んだことが無い、そんな身分での研磨の挑戦は正直辛かったが、受けた以上は不思議と負ける気がしなかった。手が良く動き、その動きに目が付いて行かない位の速さだった。
そもそも私は、彼ら先輩たちの研磨を考察し、無駄な動きが多いことに以前からチエックしていた。
その主要なタイムロスは、総じて合理的な研磨方法で無かった点である。先輩方は一様に科学的でないし物理的でもない、悪い意味の職人技で研磨をするという職人的“仕草”を重んじていた。
そこには先輩方のそれなりの“美学”があったが、私は彼らを真似しなければ上手になると分析していたので、正反対のことを行う法則に単に従えばよかった。
変な話だと思うが結果的に彼らのやり方の反対を行けばよく、先輩を頼りにすればするほど上達への道は早かった。反面教師とはこのこと!!
実は入社前に2年間で鋳造床技術を習得する目標を条件付けていた自分、業界的には5年以上はかかると言われていたが、初戦は白星スタートだった。
しかし良い状況ばかりではなく、その数か月後に悪夢の出来事が発症し始めたのだった。